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2016年4月

2016年4月20日 (水)

TMAT@ 熊本

2016 熊本地震には当院スタッフが参加しています。

http://www.tmat.or.jp/info/news_kumamoto6/

2016年4月19日 (火)

 「避難所に人がいなくなるまで続ける」熊本地震・災害医療支援チーム同行ルポ

ダイヤモンド・オンライン 4月19日(火)8時0分配信

何かとネガティブなイメージが報道されがちな徳洲会グループだが、災害医療支援チーム「TMAT」は多くの医療関係者が絶賛するほどの実力を持つ。今回の熊本地震でもTMATは、被災地で八面六臂の活動を展開している。ダイヤモンド・オンライン編集部では、TMATに同行して、その活動を追った。(取材・撮影・文/ダイヤモンド・オンライン編集部 山本猛嗣
● TMATとは何か?  徳洲会の災害医療支援チーム
 「本日(4月16日)、午後6時と午後8時をめどに、TMATの災害医療支援チームが続々と福岡の現地対策本部から熊本入りします。今なら取材の手配が可能です。チームに同行されますか」
 スマートフォンを通じて、民間の大規模病院グループの徳洲会、幹部U氏から緊張感に満ちた声が聞こえてきた。
 4月14日21時26分頃に発生した最大震度7の熊本地震。さらに16日未明に起きた地震(本震)により、被害が拡大していると聞き、私は日頃の取材を通じて、懇意にしている幹部U氏に「今回、TMATは派遣されるのか」と連絡をとったのだ。
 TMATとは、徳洲会グループが独自に組織している災害医療支援チームのことだ。グループ病院の規模を生かし、大災害が起きれば、国内を問わず、緊急医療チームを迅速に組織して派遣しており、阪神淡路大震災以降、国内9回、海外13回の計22回の災害にチームを派遣(2015年1月時点)。徳洲会グループの医師、看護師、調整役の事務職など、これまで1000人超のスタッフを被災地に送り込み、活動してきた。 
 私は常々、機会があれば、このTMATのリアルな活動を取材してみたいと思っていた。
 というのも、私は以前に「週刊ダイヤモンド」で徳洲会の取材をしたことがある。徳洲会といえば、過去に病院開設を巡り、各地の医師会と激しい鞘当てを繰り返し、創業者の徳田虎雄氏や親族の選挙活動で多くの逮捕者を出すなど、何かとスキャンダルが絶えない病院グループでもある。このため、医療関係者の中では、猛烈に毛嫌いする人も少なくない。
 しかし、TMATへの評価となると、ネガティブな評価がほとんどない。普段は徳洲会に敵意を見せる医療関係者でさえも「さすがだ」と大絶賛するのだ。

● 徳洲会は嫌いだが TMATは評価する、ある医師の話
 特に印象に残っていたのが、徳洲会嫌いだったある医師の話だった。
 11年3月に発生した東日本大震災の際、その医師もある災害医療支援のチームの一員として被災地に入った。ところが、入ってはみたものの、情報が不足しており、どのように活動して良いか、まったくわからない。「結局、TMATのチームと合流し、活動した。その機動力や物資の補給、情報支援などの体制はとても見事なもので、同行した我々も効率よく医療支援活動ができた」と述べるのだ。
 このように徳洲会嫌いの医師でさえも、納得させてしまうほどのTMATの機動力、行動力はどのようなものなのか。また、この活動を報じることで、日本の災害医療の一助にもつながる面もあるはずだ。
 ただし、私は人事異動したばかりの身。未だ慣れない仕事をいろいろと抱えており、現在のような少人数の編集部では、同僚に迷惑をかけることはできない。
 「誰か、派遣できませんか」と、編集長を通じて社内調整したが、「すぐに派遣できるスタッフがいない」との回答。知り合いのフリーライターに何人か連絡しても、「さすがに今日は無理」という。こうしている間にも時間がどんどん経過する。早くしなければ、現地のTMATチームに合流できない。
 「どうしましょうか」と編集長に聞く、私。3秒間ほどの沈黙の後、編集長は静かに語った。「あとは何とかするから、山本君行ってくれる」。私が行くこととなった。
● 現地対策本部で指揮をとる 橋爪慶人・TMAT理事
「まず、現在の状況を説明しましょう」
 私が徳洲会幹部U氏とともに、現地対策本部が設けられている福岡徳洲会病院に到着すると、対策本部で指揮をとっている橋爪慶人・TMAT理事(東大阪徳洲会病院院長)は説明を始めた。
 「本日、午前10時頃に現地対策本部を設置しました。12時15分には、既に一つのTMATチームが出発しています。被害が大きく、まだどこの医療チームも入っていない南阿蘇に向かいました。合計8チームで熊本入りします」

TMATは各地の徳洲会グループの病院から救急車を手配し、医師、看護師、事務職員らを招集して結成される。今回は長崎北徳洲会病院(長崎県)、岸和田徳洲会病院(大阪府)、八尾徳洲会総合病院(大阪府)、宇治徳洲会病院(京都府)、宇和島徳洲会病院(愛媛県)、高砂西部病院(兵庫県)、大隅鹿屋病院(鹿児島県)、東大阪徳洲会病院(大阪府)の各8病院の救急車が一旦、現地災害本部のある福岡徳洲会病院に集結した後、複数のルートでそれぞれ熊本入りするという。これだけの数の救急車を一度に各地から集めて派遣できるのは、巨大病院グループの徳洲会の強みなのだろう。
 今回、私が同行することになったのは、栁澤(やなぎさわ)・宇治チーム。高砂西部病院と宇治徳洲会病院の2台の救急車によるチームだ。宇治チームは、木庭茂・医師、丹波香織・看護師、森藤章宏・看護師、藤田益巳・事務職でいずれも宇治徳洲会病院所属。栁澤チームは、高砂西部病院の救急車だが、所属病院はバラバラで、栁澤修平・看護師(四街道徳洲会)、橋爪よしの・看護師、長谷川広市・臨床工学士(東大阪徳洲会病院)、羽田博之・事務職(八尾徳洲会病院)というメンバーだ。
 21時25分に福岡徳洲会病院を出発。私と幹部U氏は、宇治徳洲会病院の救急車に同乗することになった。宇治チームで、救急車のハンドルを握る藤田・事務職に話を聞けば、午前11時に京都を出て、福岡には21時ごろに到着したそうだ。わずか30分程度の休憩で、出発である。
 まず、私の同行するチームは、熊本医療センターに向かった。依頼を受けた小児用アレルギー食や糖尿病乳児のための糖分が入っていない粉ミルクなどの補給物資を届けるためだ。
● 熊本医療センターに物資輸送し 高力チームと合流
 意外にも、熊本への道は空いていた。
 22時、福岡県から九州自動車道に入り、南下していく途中。どんどん雨が激しくなる。「これじゃあ、現地の被災者の方も大変ですね」と幹部U氏がつぶやく。対策本部から「大きな余震が続くので、スピードには気をつけるように」との電話が入る。
 九州自動車道を送り、一般道を通って、熊本市内に入ると、暗くて良くは見えないが、壊れた家屋や塀などが目に付くようになってくる。たまに、タイヤが陥没した路面を踏み、ドシンと車両が大きく弾んで、天井に頭をぶつけそうになった。

21時46分、熊本医療センターに到着。依頼された粉ミルクなどの物資を渡すと、先行していた高力俊策・医師(湘南藤沢徳洲会病院・外科部長)を中心とするTMATの「高力チーム」と合流した。現地の医療スタッフらも交えて情報収集した後、栁澤チームは、「これから近くで被災した人たちが集まっている避難所を訪問し、医療支援の具体的な要望について情報収集する」という。
 聞けば、熊本市立力合小学校と中学校には、それぞれ500人超の被災者が避難しているが、これまで医療支援チームの訪問もなく、疲労やストレスなどで不眠や風邪などの体調不良を訴える人が出てきているそうだ。
 どうやら、栁澤チームは各避難所などの要望を聞いて、訪問診療先を確定し、実際の診療は医師のいる宇治チームが行うという役割分担のようである。
● 避難所を次々と訪問 要望を聞いて医師派遣を決定
24時37分、私は宇治チームから栁澤チームの救急車に乗り換え、力合小学校とその近隣にある力合中学校に向かった。
 力合小学校に到着したのは、日付が変った17日の1時03分。その後、続けて中学校には1時21分に到着。
 いずれも体育館や教室には、多くの被災した人たちが寝泊まりしている。栁澤看護師らは避難所に詰めている自治体の職員や保健師らから、次々と状況や要望を聞き出していく。
 避難所からは、「これまでの医療対策と言えば、体調を聞いて市販薬の配布くらいで精一杯」「現実的には、救急車で搬送する手段しかできていないので、医師や看護師にきちんと診療してももらえるのはありがたい」との要望を受ける。
 小学校と中学校の避難所の様子を見ると、子どもや高齢者も多い。高齢者の中では、車いすやイスに座ったままで寝ている人も目に付く。膝や股関節の具合などで、硬い床に寝るのが困難なのだろう。これでは十分に体を休めることもできない。
 私の母も重度のリウマチ患者で車いすの生活である。きっと被災したら、車いすに乗ったままの状態で寝ることになるに違いない。夜中にトイレの世話で、老いた母親の車いすを押す息子さんらしき人の姿を見て、とても他人事ではないように感じた。
 栁澤看護師は、小学校には午前、中学校には午後に、「医師と看護師を派遣して、診療しましょう」と約束した。

● 御船町保健センターに到着 診療所の開設を決定
 その後も、1階スペースに多くの被災者が寝泊まりしている熊本市役所内を視察した後(1時55分)、2時57分に御船町役場に隣接する御船町保健センターに到着。再び高力チームと合流する。
 この御船町保健センター周辺は、スポーツセンターやカルチャーセンターなどの多くの避難所が集積しており、約2000人が避難していることを確認。町内の医療機関は壊滅的な被害を受けており、適切な医療が受けられる状態でないという。
 栁澤看護師らの話では「保健センターの保健師3人が、がんばって周辺の避難所の医療を担当してきたが、未だ医師や看護師のいる医療チームの支援はない」という状態であり、TMATチームの滞在を強く要望されたとのことだ。すでに高力チームは6時過ぎから、ここに診療所を開設し、活動することを決めたという。
 避難所に「医師、看護師らが来た」という情報が入ったためか、早速、脱水症状で体調を崩した40代男性が訪問。既に時計は3時を回っているが、看護師が点滴などで対応する。
 私が同行するTMATチームは保健センターの一画を借りて宿泊した。その晩、体が跳ね上がるのではないかと思うほど、激しい縦揺れの余震が何度も続いた。
● 早朝から次々来訪する患者に 笑顔で応じる医師・看護師
 「頭痛がする」「のどが痛くて声が出ない」「自分が使っていた薬が切れてしまった」「ねんざしたようだ」――。
 御船町役場から各避難所に診療所開設が通達されたためであろう。翌朝6時以降、ほぼ5分~10分おきに患者が来訪する。
 高力医師や看護師らはおそらく3時間も寝ていないはずだ。それでも嫌な顔ひとつせずに笑顔で応じながら、次々と患者を診察していく。
 私が取材している最中、「父親が目に付けているガーゼを交換してほしい」という家族が訪れた。事情を聞いてみれば、父親は1年くらい前に目の手術を行った後も具合が良くなくて、目にガーゼを当てていたそうだ。ところが、「ガーゼが切れてしまい、とても困っていた」という。さらに、聞くと、自宅は既に半壊状態で、危険で入れない。「飲み薬だけはなんとか持ち出せましたが、ガーゼ類を取り出そうとした時に、大きな余震が来て、驚いた拍子に落としてきてしまった」と説明する。加えて「私も頭が痛くて体調はよくありませんが、父のことがあまりにも心配でした。今なら、お医者さんと看護師さんがいる聞き、早速、訪問しました」と事情を述べる。
 「これから力合小学校に行きますが、同行しますか」。8時を過ぎた頃、栁澤・看護師は私に声をかけた。力合小学校は昨夜、訪問して要望を聞き、「医師と看護師を派遣する」と約束した場所である。「もちろんです」と私は同意し、救急車に乗り込んだ。
 8時30分、力合小学校に到着すると、教室の一画が診療所となっていた。待合スペースには、高齢者や乳幼児を抱いた人など大勢の人たちであふれている。
 力合小学校では、宇治チームが7時過ぎから準備を始め、8時からは本格的な診療を始めていた。昨夜、私が聞いた時点では、診療開始は9時の予定だったはずだ。当初の予定より、1時間も早いではないか。
 丹波・看護師によると、「車いすのリウマチの方が既に待っていたので、早めにスタートした」という。
 見ていると、看護師らが患者から症状を聞き出してメモを取り、それを木庭医師に次々へ送って、診察していく。午後には、中学校に行く予定だ。栁澤看護師は、ちょっと中学校に準備に行ってきますと、足早に去った。
● 24時間365日オープン 生命だけは平等だ
 チームの現地入りから診療開始までの動きは非常に効率的に進行していた。診療の様子も無駄がなく、てきぱきと進行していく。「非常に慣れているな」とド素人の私が見てもわかる。
 被災地での情報収集に始まり、複数のチーム間や本部との連携、次々と補給される物資。それに加え、熟練したスタッフ。今回、同行してみて、多くの医療関係者がTMATの実力を認める理由が身を持ってわかったような気がした。
 御船町に開設した診療所は「24時間オープン。避難所に人がいなくなるまで開設し続ける」(栁澤看護師)。スタッフは平均で約5日おきに交代という。同行して一晩滞在した自分の経験から判断すれば、体力的にもかなりキツいはずである。
 私自身、徳洲会という「組織」については、過去の多くのスキャンダルもあり、それなりに良い面があると知りながらも、何となく「胡散臭いイメージ」を拭い去ることはできていなかった。
 しかし、志高く、熱心に活動している若い医師、看護師らの姿を見て、少なくとも「24時間365日オープン。生命だけは平等だ」という理念は、決して嘘でも誇張でもないということを実感した。

ダイヤモンド・オンライン編集部

2016年4月 7日 (木)

みどりの風 三軒茶屋二コ

みどりの風 作者=三軒茶屋二コ

 不慮の事故から二ヵ月半。ようやく心身に落ち着きも出て、ベッドから起き出し庭内のそぞろ歩きなど自分のペースづくりの躍起。

事故?と逃げ言葉を使いましたが、昨年暮れ、友人と飲酒後、自宅近くで倒れ、救急車で長崎市内のT病院に搬送されました。

 マックス150Km級の重い速球を後頭部に受けたような痛みでこん倒。意識が薄くなり記憶もそのままプッツリ。

 急性硬膜下血腫・脳挫傷。約二週間後、病院のベッドになぜいるのかわからないまま。「何か大変なことをやらかしましたな」と直感。

 その間、暮れとお正月の迎春ムードも吹っ飛び、家人をはじめ家族、親族を含め右往左往する間も、眠り続けていたようで….

 じくじたる殊勝な思いなんぞ、恥ずかしくて言えたものではございません。

 今だに混乱と記憶の不透明さはもどっておりません。思いつくままを筆にしたい、と。

  後頭部にソフトボール並みの大きなコブ。これを治し、脳内への血液の流れ込み、逆流を防止しながら体外に排除する治療に当たっていただいたのがT病院のO医師とそのスタッフ。

 看護師それにリハビリ陣も加わって生命の賛歌のオーケストラの大熱唱で一命をとりとめた筆者。運が良かったと月並みなことを言うより医師陣の総力戦にただただ頭を垂れるのみです。

 入院中、ふと死の渕から生還と自らつぶやきも出る。それは限りなき天へのうやまい、神のおぼし召しか。お仏さまのご慈悲で救われたのか。混とんとした思考力のないなかで必死に思い続けました。

 神さま、お仏さまでなく、ご先祖さまのご直愛。ご先祖さまにも迷惑をおかけしたが、よりによって酒を飲んで倒れ死ぬとはご立腹し「これだけは家門の恥」とばかり、総力あげて、現世にカムバックさせられたのか、ようとしてわかりません。

 現実的には前述したO医師らのすばらしく献身的な治療が正鵠(せいこく)を得ていると確信します。

 そう、夢でみた菩提寺、西海市にある実相寺のご住職のトレードマーク・丸坊主とけさをまとった上半身の似顔絵で「人とのつながりが寿命をのばす」の名説法も説得力を持って迫ってきます。

~中略~

 退院の日、O医師に「これまで恩人と言う人はいませんでしたが、初めて恩人ができました」。これが唯一のお礼の言葉でした。

万感の意を込めた感謝のそれです。

 O医師は「他の患者さんと比べ何というか、気合いがありましたネ」という言葉を微笑とともにいただいた。

 気合い。そうです。その心意気が運命を左右する一言かも。医師の気骨もかいま見た思いです。

難病、不治の病と闘病中の人たちに医師の励ましを贈ります。

「気合いの心意気で頑張ってください」と。

医師は世の中のお宝。志宝です。改めてO医師へのお礼にかえます。

 JA島原雲仙 こぶれNo.181 平成2841日発行

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