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2011年4月

2011年4月29日 (金)

東北へ持っていく物 GW時

病院側が準備して私の机に置いていった物は下記の通りです。

1.水のいらないシャンプー 資生堂FRESSY http://www.shiseido.co.jp/products/item.html?pd=84197&br=fressy

2.大人用からだふき 50枚入 http://www.d-unicharm.jp/item/80.html

3.雨合羽 Mサイズ:Lサイズが良かったが帰ってきてから減量しようw

4.Head Light X-FORCE:耳鼻科医っぽい、頭にバンドを巻いて照らす、これは夜間歩く時、トイレで有用らしい。

5.懐中電灯+乾電池単3 3個+単4 3個

6.軍手+皮手袋

7.呼子笛 

番外: 寝袋 これは毛布が十分あって現在は不要らしい。

2011年4月27日 (水)

紹介状の住所は空欄に

南三陸から帰ってきた医師の報告会。5月末まで医療費は無料。検査が出来ない、出来ると言っても血糖値とプロトロンビン時間(ワーファリン内服時に定期的に採血して効果は判定するのに使用します)のみ。放射線学的検査、血液検査が要るような疾患は全て後方病院に片道3~4時間かけて送る。異常なければ仮設診療所へ戻ってくる。
しかし、住所は空欄にすることが多かった、家が流された方に住所を聞くと泣いて先が進まない、避難所が住所であり書けない、空欄にせざるをえなかったとのこと。
これでは3-11後に現場が混乱して患者の収容先を把握できていないのも当然でしょう。保険証すらないし、IDカードすらない状況では正確に所在をつかむことも難しかったでしょう。想像を絶する状況だったんですね。読売新聞のこの記事、やっぱり状況が読めていないです。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110427-OYT1T0003...

被災者が病院転々、情報伝達不足でトラブル続出

 東日本大震災の医療活動で、患者情報の伝達不足によるトラブルが相次いでいたことが分かった。病院や避難所を転々とする被災者が続出し、病院や高齢者施設が患者らの転院先や死亡情報を把握できなかったり、病状が引き継がれないまま患者が死亡したりした。事態を重視した厚生労働省では、患者情報の伝達を徹底するよう自治体に通知。大規模災害時の医療情報の取り扱いは今後も大きな課題になりそうだ。

 宮城県石巻市の石巻赤十字病院では震災直後、南三陸町の公立志津川病院に脳梗塞などで入院していた千葉茂さん(85)を受け入れた。家族によると、約1週間後に問い合わせたが「該当者はいない」と回答。今月中旬、宮城県警から「搬送から4日後に石巻赤十字病院で亡くなった」と聞かされた。病院関係者は「震災後に安否情報センターを設けたが、混乱で患者の情報を十分に管理できなかった」と話す。

 南三陸町の特別養護老人ホームでは震災直後、病院などに搬送された10人以上の入所者の所在が一時つかめなくなった。搬送される入所者の腕に氏名、生年月日を書き込んだ医療用テープを貼っており、家族らと複数の病院などを探し、4月上旬ようやく全員の所在が判明した。

 福島県でも3月中旬、大熊町の双葉病院に入院するなどしていた高齢者ら21人が避難所への搬送中や搬送後に亡くなった。県によると、避難所にいた医師らに症状がうまく引き継がれなかったことなどが原因だという。厚労省は、都道府県を通じて被災地の医療現場に、避難所などに患者を搬送する際、病状や服用する医薬品などの引き継ぎを徹底するよう依頼した。

20114270305  読売新聞)

2011年4月24日 (日)

てんかんと運転免許 「償い」

てんかん薬の内服による副作用で交通事故を起したのではないか?という質問が来ました。2年前でしたか、トラック運転手が起した交通事故と抗てんかん薬の関係について運送業者の上司と患者本人が来院しました。抗てんかん薬で眠気がすることはあるのですが、服用歴、血中濃度、てんかんがどの程度おこっていないかを総合的に判断して因果関係は極めて低いと判断して診断書を書きました。

てんかん発作で内服を続けている方が自動車免許を取得するにあたり大丈夫か?トラック長距離運転手の雇用主から質問を受けることが度々あります。特に運転手を生業にしている患者さん、雇用主にとっては命に関わる問題で我々もこの時ばかりは教科書、HPで再度確認することが多いのです。
当然、この方は運転するのは適切でないと判断すれば、患者さんに
『通学中の小学生を数人巻き込んだら、アナタはどうしますか?』って質問をしていました。しかし、この質問通りのことが残念ながら栃木県で起こってしまいました。

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201104/2011042101043&rel=y&g=soc


容疑者、複数の病院で治療=子供時代から持病抱える児童6人死亡、クレーン車事故
 栃木県鹿沼市でクレーン車が歩道に突っ込み小学生6人が死亡した事故で、運転手柴田将人容疑者(26)が持病のてんかん治療のため、これまで複数の病院に通院していたことが21日、捜査関係者への取材で分かった。
 柴田容疑者は県警鹿沼署の調べに対し、「発作を伴う病気の治療を受けている」と供述しており、同署は運転中にてんかんの発作があった可能性もあるとみている。捜査関係者によると、柴田容疑者は子供のころからてんかんで、栃木県内や県外の病院へ通っていたという。(2011/04/22-00:11


道路交通法改正後の免許取得可能なてんかんは次の通りです。

1.
発作のタイプを問わず5年以内に発作無し + 「再発の可能性無し」という診断
2.
発作のタイプを問わず2年以内に発作無し + 「×年程度は再発の可能性無し」という診断
3.
今も発作があるが、意識障害や運動障害を伴わない単純部分発作のみ + 「悪化の可能性無し」という診断 + 主治医による1年間の経過観察
4.
今も発作があるが、睡眠中の発作に限定 + 「悪化の可能性無し」という診断 + 主治医による2年間の経過観察 

http://www5d.biglobe.ne.jp/~jea/netinfo/kyoto05.html

免許取得の際の診断書の書き方のポイントを日本てんかん学会法的問題検討委員会がHPで紹介していますhttp://www5d.biglobe.ne.jp/~jea/netinfo/license_sindansyo...

記載例1
診断:特発性全般てんかん、強直間代発作
最終発作は2年前で、脳波は正常化しており、バルプロ酸600mg服薬中であるが、今後2 年であれば発作が起こるおそれはなく、自動車運転に支障はない。
(
運転免許は許可されますが、2年後に診断書を再提出することになります。何年後に再評価が必要かは主治医の判断にまかされています。)

多くの場合は主治医の判断で診断書を書いて問題ありませんが、車の運転免許取得については都道府県の運転免許センターから委託された臨床てんかん専門医の診断書により取得可能と判定されると問題なく取得できます。


(参考)アメリカの場合Frequently Asked Questions (FAQ) Center - Driving Privileges http://www.stronghealth.com/services/neurology/epilepsy/f...

さだまさし 償い http://www.youtube.com/watch?v=2GvLqlaW_GI&feature=related

2011年4月23日 (土)

いつまで支援?リーダーシップは?

昨日、南三陸から戻ってきた同僚医師と話をしました。医療過疎が進んでいた地方に起こった震災で病院が崩壊し医療派遣をしたのはいいが撤退のタイミングが難しいようです。イスラエル軍は開腹手術を含めて耳鼻科、眼科と以前日記に書いた通りですが、彼等が撤退し医療レベルを上げてしまい、ここから撤退すると医療レベルが下がってしまいます。地元の医師、病院に委ねると言っても受け皿が過疎地であれば尚更、難問多いはずです。

5
2日を目途に私が所属する医療法人も撤退予定だそうですが、どうなるんでしょうか?JMAT、医師会のグループでは自己完結型は難しいはずですが、医師会内でも一部混乱しているようです。

ではどうして都道府県単位でリーダーシップをとって医療派遣ができないかと言うと、ある法律に詳しい方に教えて頂きました。

<災害救助法では都道府県知事が医療、土木建築工事又は輸送関係者を、救助業務に従事させることが出来ます(同法24条など)。ただし、この権限を行使して医療や土木建築工事又は輸送関係者を救助に使役する場合、1件1件につき公用令書を交付しなければならず、またその費用や日当などは公費支弁しなければいけない規定(同法第3章)があります。こうした使役者を「日雇いの臨時地方公務員」として辞令を交付して、実費を支払い、労災などの補償を行う形になります。非常にめんどくさい事務手続きが多数発生しますので、民間のボランティア医師が「自発的」に行政を頼らず支援してくれる方を歓迎するのです。>

また、大分県医師会に所属されている先生のHPより下記紹介します。


災害と医療支援・提供体制 代表世話人 松 本 文 六
<我々はどういう形で支援ができるのか?>

 東日本巨大津波大地震が発生してすでに1ヵ月近く経っている。しかし、未だにその救済復興の道筋はついていない。勿論、そこには"原発"事故も大いに絡まっていることもあろうが、..
 315日、日本医師会は、J-MATの派遣要請を各都道府県医師会に発していた。しかし、その文書の中には、《災害医療チームは、自己完結型が原則であり、現地等への交通手段はそれぞれ手配していただく。食についても同様の対応をとられたし。》という旨の記載がある。期間は37日間で、大分県から行く場合には、茨城県にと大分県医師会のホームページに記されていた。
 D-MATが撤退したその翌日に、日本医師会は何を血迷ったのか、上記の要請文を医師会員に送付している。D-MATの撤収という情報は伝わっていなかったのか? 一人開業の先生はまず東北まで行けるはずはない。医師と看護師・事務員等を派遣できるのは、少なくとも150床以上の病院でないと困難である。しかしながら、その後、日医から日本病院会や全日本病院協会などの病院団体に医療斑の派遣を要請した気配は全くない。
 気温が低い東北まで、九州から食糧やガソリン・寝具を含めて自己完結型の医療チームを派遣できるのは、日赤・済生会・厚生連・国立病院医療機構や徳洲会のような全国的展開をしているチェーン病院しか思いつかない。そのような病院は、現地の関連病院を拠点にして、医療支援活動を展開できる。しかし、九州からガソリン・食糧・寝具などをバスに乗せて自己完結型で医療支援をするなど到底不可能な話である。315日発の災害医療チーム派遣要請の日医文書以降現在まで、日医からのJ-MATの活動報告や次の支援要請などは全くなされていない。
http://www.tenshindo.org/profile/word/2011/04/post-7.html

2011年4月21日 (木)

アジアにある術後の食事形態 食上がり

アメリカであれば術後ハンバーガー+コーラなんてメニューを朝から看護師にベッド上で注文する姿を見るのですが、日本では医師の判断で術後翌日の朝か昼から粥食で開始して食上がりが普通なのかと思っていました。しかし最近日本の論文を読んでいますと術後翌日から普通食を出している病院もあることに気づきました。私が古いのか?日本に限らず中国、韓国でも朝のメニューに粥食をみつけた時はホッとした気分になります。昔からアジアでは体の調子が悪い時は粥を母親が作ってくれる、もちろん粥だけでは味がしないので梅干し、シラス、漬物があってもいい訳です。

開頭術の場合、側頭筋を切って縫い合わせますから側頭筋と関係する下顎の動きに影響すると思い、優しい粥にしています。私は未だに食上がりはアジア的で好んでオーダーしていますが少数派なんでしょうか?

1.病室に戻って、術後翌日最初のお昼
なんと普通食、口が痛くて開かず断念  手術後、初めての食事が五穀米だったのも驚き、結局、病院の食事は、妻が食べ私は、妻が自分用に買ってきた お寿司などを食べました、。夕食からは、お願いしてお粥とおかずは、一口大にしてもらいました。 その他、ジュース、ゼリーなど特に食事制限等ないため自由 
http://blog.goo.ne.jp/jup-409/c/91f74abdf3296b448d14b983b4505cc4 <がんばらないようにがんばろう2006/7:未破裂脳動脈瘤の発見から手術そして>より

2.大腸ポリぺクトミー 昭和大学附属豊洲病院院長 松川正明

食事:夕食より5分粥食開始。腹痛、出血などの合併症の徴候がなければ、翌朝は7分粥食、昼は全粥食と1食上りとする。http://www.pariet.jp/alimentary/clinicalpath/clipathrep01-k09-02.html

3.帝王切開術後

術後1日目より飲水可、2日目朝より1食上がりで3分、5分、全粥。2日目夕方になっても排ガスがない場合は、ワゴスチグミンを4時間ごとに皮下注して排ガスさせ、3日目より常食。ANDO産科婦人科レディースクリニック

http://home1.catvmics.ne.jp/~katsuaki/faq/

因みのこの安藤先生、正直に抗生剤の使用についてもこのように言及されています。<術後の抗生剤は不要とか、術前の1回投与のみとか、術後の1回投与のみとか、術前術後の2回投与のみで十分など様々な短期投与の有用性が報告されており、それで十分と思いつつも開業医ゆえ何かのトラブルがあると嫌なので、 手術直前投与を含む1日2回、5日間セフメタゾン2gバイアルのジェネリック品を投与している。 >

2011年4月20日 (水)

ソーシャルネットワークを有効活用

最近、Twitter, Facebook始める人が増えています。友人とはメール、TwitterFacebookでつながっています。中学時代の友人とはメーリングリストで繋がっていましたが、今回の震災を機にFacebookでも輪を広げています。

http://www.facebook.com/onizukam

http://twitter.com/#!/kochounoyume

<地震発生直後から、携帯電話、携帯メールはほぼ使えなくなり緊急電話確保のため、固定電話もつながりにくい状況になりました。この状況で問題なく使えた通信手段は、データセンターが海外にある、gmailSkypeTwitterFacebookでした。特にTwitterは、すぐに安否の確認が行え、リアルタイムに最新情報、注意情報が次々に流れてくるためテレビもラジオもない状況で、非常に頼りになりました。>

また、東北地方にある病院の院長は地震が起きたとき出張中で、電話が通じない中で、ツイッターで指示を病院に飛ばしていたそうです。病院の緊急連絡網って普通

、携帯電話、メール位でしょうが、TwitterFacebook非常時に備えて病院として持っておいた方がいいでしょう。

私事ですがiPhoneiPad、いずれを買おうかと昨年10月に迷った私は親指族になれないものですからタッチパネルで両手でタイプできるiPadにしました。 iPhoneに比べてバッテリー駆動時間が最大10時間と長いことで携帯電話のように頻回に充電する必要がありません。中身の大半がバッテリーといっても、この数値は輝度最小といった最小消費電力の状況での結果でしょう。 携帯性では携帯電話に劣り、ショルダーバッグを抱える必要がありますが、余震の続く東北地方にもiPadGW持っていくつもりです。http://ascii.jp/elem/000/000/523/523801/index-5.html

伝言災害ダイヤルは災害ご当地でないと使えなませんから、遠隔地に住む家族、親類、友人間でも携帯以外の通信手段を決めておいてた方がいいですね。

実際、非常時、災害時活用された方がいらっしゃいますから、有効にソーシャルネットワークシステム(SNS)は活用したいものです。

2011年4月15日 (金)

水が乏しい避難所での支援

避難所ではライフラインはほぼ全て止まり、被災者の方達は手を洗う水も無く、入浴もままならない生活を送られていました。
元々既往症がある方も津波に薬やその情報を流され、長期化する避難生活で症状が悪化した方も多くおられましたが、その他にも長い避難所生活での運動不足や高齢の方の褥瘡発生、インフルエンザやノロウィルス等の感染症など様々なリスクが考えられ、他のメンバーともどうするべきか話し合ったりもしました。しかしそういったリスクに対してどうすればいいのかと考えつつ、日々の仕事に追われたまま活動期間は終わり、私は長崎に戻ってきました。


病院勤務は清潔を求めますが、被災地では体が汚れてもすぐ洗う事は出来ません。手が汚れても速乾式の消毒液で消毒し、ウェットティッシュで拭くのが精一杯。資材も足りない物があってもすぐには補充されません。
吸引が必要でも吸引機はあっても電気がない為使えず、タコ足配線になった自家発電のコンセントから何とか延長コードを引っ張って使えるようにしたりと、その場でどうにか出来る事を考えていくしかないのです。

~南三陸の支援から戻った看護師さんの手記より~

2011年4月14日 (木)

被災地ではプラザキサが良かろう

私がGW支援で行く病院のERでは患者の6割が脳卒中とのこと。降圧剤を今まできちんと内服していた人が出来ていない、避難所で運動量が減少している等、想像していた状況ではあります。 湘南鎌倉病院循環器科の先生が書かれているブログを読んで安堵しました。この先生と同じことを私も考えていました。

本吉病院に派遣されてワーファリン内服中、または発作性心房細動があって脳梗塞の危険が高い、下肢静脈血栓の方がいた時、ワーファリンでは管理が難しいな~プラザキサがあればと考えていた矢先でした。ワーファリンは食事内容によって効きが全然変わってくるので、避難所生活の人に以前の内服量を尋ねても当てにならないでしょう。 GW4月30日に東北へ医療支援に向かいます。

~当地に入って、心房細動患者さんで、以前よりずっと脳梗塞予防あるいは脳梗塞の後でワーファリンによる抗凝固療法を受けられている患者さんが随分とおられることが分かりました。当然処方量の決定には毎回の INR検査が必要です。しかしながらこの状況の中、この本吉病院では INRは外注検査となり、結果取得のためには24時間以上必要です。ですから、もとより薬剤の種類も総量も地域全体として不足する中、当初は 3日間しか、あるいは最近になってようやく 1週間投薬、そしてやっと数日前から 2週間投薬が可能となった状況の中、とてもでありませんが、傷ついてようやくこの病院にたどり着いたお年寄りの方々に翌日あるいは翌々日来院して頂いて処方量の決定などできません。

幸い厚生労働省はこの4月1日より実質的に新しい抗凝固薬、画期的な薬剤「プラザキサ」を認可してくれました。この薬剤は INR検査が不要であり、薬効も合併症も少ない画期的な薬剤です。ただ、未だ新薬なのでもともとこの地域には導入されていませんでした。そこで、鎌倉病院経由で製造発売元のペーリンガー製薬にお願いして緊急的に導入して頂くことにしました。これでどれだけ多くの人々が救われるでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/Dr_Radialist/20110411/1302503329#c

日本ベーリンガーDIセンターに問い合わせました。ワーファリンの場合、ケイツーという薬剤で拮抗させてPT INRを測定して術前に評価することが出来ますが、プラザキサの場合拮抗薬はありません。半減期が約12時間であり中止後24時間後には抗凝固能は消失していると考えてよいそうです。また腎排泄性の薬剤ですから輸液して利尿をかければもう少し早く効果消失は期待できるかも、ということでした。 脳出血で待てない状況の場合、術中にFFPを投与しながら手術ってことがあるかもしれません。

また、酸性でないと吸収されないので胃潰瘍で使用するプロトンポンプ阻害剤併用は時は10%減量が必要、顆粒は表面がダビガトランの構造ゆえに カプセルだけど経管投与は無効となり易いこと、ベラパミルなどと併用で吸収が遅くなるので服用時刻をずらす必要がある、新製品ですから薬価が高く14日間処方という縛りがあること。

キリがありませんが、これらのことを頭に入れても被災地ではワーファリンよりも使いやすいでしょう。イスラエル軍が残した診療所ですとプロトロンビン時間(INR 国際基準)が測定可能ですからワーファリンでもOKでしょうが、本吉病院では測定すらできないでしょうから選択の余地がありません。

2011年4月 8日 (金)

さすがイスラエル

さすがに中東戦争で非常時の医療に慣れているイスラエル、行動は迅速、規模も大きかったようです。先週、南三陸町で医療支援に参加したナースが感動して帰ってきました。会話は英語で頑張ったそうですが、カルテを覗くと読めずにショックを受けたようです。そりゃそうだヘブライ語+英語だったそうな。

地震発生から48時間以内に現地到着可能と日本政府に連絡してきたイスラエル軍医療チームって凄いです。レントゲン、ラボ、眼科、耳鼻科診察器具、分娩台、手術台+器具全て持参しプレハブの診療所を作り、後は置いていくって離れ業。戦争慣れしているとはいえ、イスラエルの国力は商人の民族だけに手際、大胆さ、脱帽です。
特に分娩台、震災直後に妊婦がいるという認識、日本が見習うべきところ大です。

「国際救援チーム」まだ頑張ってくれてるトルコとイスラエルに密着
2011/4/ 7 15:07
ちょっとした総合病院
宮城県南三陸町で3月28日から医療活動を続けているのがイスラエル国防軍の医療チームだ。それも半端じゃない。内科や外科はじめ、小児科、産科、耳鼻科、眼科の専門医師の総勢60人が、X線検査やエコー検査もできる機器を持ち込んでおり、ちょっとした病院がそのまま移動してきた感じだ。
イスラエル大使館の担当官はこう話す。
「お手伝いできることがうれしいし、日本の文化に触れることはとても興味深い。医療チームにとっても特別な体験です」
司会の加藤浩次「イスラエルの医療チームと日本とはどういう関係なんですか」
コメンテーターのおおたわ史絵(内科医)が「医療の世界ではイスラエルは先進国なんです。カプセルでできた胃カメラなどを発明したのはイスラエル。国がこういうチームを即座に作れるのはすごく重要で、日本はこういうところはすごく弱い」という。
イスラエル支援チームのすごさは、抑圧され、虐殺されながらも、漂泊先の社会で医療や学問を通じて足跡を残したユダヤの歴史をちょっぴり想起させる。

http://www.j-cast.com/tv/2011/04/07092396.html

イスラエルの医療団撤収へ 機器の一部は提供 2011.4.6 21:16

 宮城県南三陸町で仮設診療所を設置し活動していたイスラエルの緊急医療チームが、10日に診療を終え、11日に撤収することが決まった。外務省が6日明らかにした。
 プレハブの仮設診療所は4月中旬をめどに地元の医療機関が引き継ぎ、医療チームが持ち込んだ機器の一部もそのまま提供される。
 イスラエルの医師や看護師ら約50人は、多くの住民が避難生活を送る南三陸町のベイサイドアリーナ横で3月29日に診療を開始していた。
 外務省によると、震災で外国政府から医療団が派遣されたのは初めてだった。

2011年4月 6日 (水)

いつか福島に戻って復旧を

東日本大震災と、福島第一原子力発電所の事故を受け、長崎市に避難した福島県南相馬市の高橋利昌さん(38)が2日、市営矢上団地(3DK)に入居した。市役所で記者会見し、「故郷の景色は変わってしまった。いつか戻り、復旧の手伝いをしたい」と目を潤ませながら語った。

高橋さんは、原発から約21キロの場所にあるアパートに住んでいたが、地震後、より原発から離れた同市内の実家に避難した。しかし、その後、勤務先のガソリンスタンドが閉鎖されたため、県外への避難を決意。17日に軽乗用車で同市を出発し、途中フェリーを利用するなどして、25日、県内に入り、滞在先を探した。被爆地・長崎は放射線などに理解が深いため、「優しくしてくれると思った」という。 

現在はハローワークなどで職を探している。屋内退避地区に入っている実家に、両親と祖母が残っており、「祖母は『原発の影響は直接ないから動かない』と話しているが、避難してほしい」と心配そうな様子で語った。 

長崎市には5日、福島県双葉町と大熊町の1世帯5人が新たに市営住宅に入居し、市内の市営住宅などに入居した避難者は5世帯14人となった。 

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagasaki/news/20110406-OYT8T00161.htm

福島で被災され長崎へ来られる方のニュースを聞くようになりました。被爆地 長崎、広島は福島の方にとってはシンパシ―を感じるのでしょうね、理解出来ます。長崎も被爆後の復興にあたっては祖先、先輩方の並々ならぬ苦労があったはずです。ただ、今回の福島原発の場合、いつ福島が安全で戻れるか分かりません.

生活基盤のない福島に居るよりも長崎で落ち着いてから、また福島へ戻る! 陰ながら応援したい気持ちになります。 

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